土橋 朗の自己紹介

東京薬科大学 情報教育研究センター センター長・教授

昭和30年6月14日生まれ(血液型B型の双子座)

横浜市緑区中山町に生まれました。横浜と言っても海の潮風などまったく届かない北部山岳地帯でした。昭和30年は戦後は終わったと高らかに宣言され た年、そんな年に2つ年上の姉に次いで長男として生まれました。町の中は田圃ばかりで、道も舗装などはまったくされていませんでした。道の分かれるところ には必ずお地蔵さんが立っているような、そんな田舎町でした。
この町に30歳で結婚するまで住み続けました。

学歴
昭和53年3月 東京薬科大学製薬学科卒業
昭和55年3月 東京薬科大学大学院博士課程前期卒業
昭和60年6月 薬学博士(東京大学)の学位取得

中山小学校、中山中学校と地元の学校に通い、高校入学で晴れて中山を脱出。横浜は三ツ沢の丘の上にある横浜翠嵐高等学校でした。ここで現在まで関わ ることになる悪友達と知り合いました。高校時代は友人達の影響もあり、文系志望で法学部に行くつもりで国公立文系クラスにおりました。それがなぜか東京薬 科大学への入学になります。
思えば高校3年生の折、直接的な受験科目でもなく、化学実験なるものをして遊んでおりましたら、なんだかその面白さに「はまって」しまい、有機化学を学ぶ にはどこへ行ったらよいですかの質問に、あろうことか「薬学部へ行け」と言われて、その言葉を鵜呑みに。これが人生における最初の間違いでした。

大学ではただひたすらに勉強しました。東京薬科大学旧男子部は大久保にあり、気が乗らないときは高田馬場まで山手線に乗り、早稲田大学で人文科学系 の講義を受けました。今は死語となった他大学のテンプラ学生です。やっと学生運動も衰退しロックアウトが解かれた大学へ入り込み、好きな講義を受けまし た。早稲田の文学部や政経学部でも良く勉強し、友人達にノートを貸しました。文化人類学などは試験を受けたら合格したこと間違いなしです。
自分の大学でも本ばかり読んでいました。図書館の専門書庫が私の好きな場所で、暇さえあれば誰もいない薄暗い書庫の中で本を読んでいました。人と関わるの が大の苦手で、一日中誰とも話さないことも多かったように思います(そんな私に、声をかけて来た勇気ある人物が、前薬学部長、平塚 明先生です。「俺はお 前みたいな口をきかない奴の口をこじ開けるのが好きなんだ」と言われたことを今でも鮮明に覚えています)。
それがまあ、なんと教員となって人前で話しをするのですから、人生はわからないものです。

ひたすら勉強しましたが、大久保もだめ、高田馬場も嫌というときは池袋まで行きました。かなり危ない裏通りを抜けて、文芸座や文芸地下に潜って映画 を見ました。3本立てを見ると昼も過ぎてしまい、慌てて大学に向かったものでした。あんパンをかじりながら、危ないおじさんの攻撃を避けながらの映画鑑賞 は今でも思い出すことができます。確かに私の青春の一コマです。

あぶないといえば、旧男子部は神田川沿いにあり、少し歩けば井上陽水のあの「神田川」に描かれた木造の古ぼけた2階建てのアパートが確かに存在して いるのを見ることができました。「妹」に出てくる秋吉久美子がそこにいるようなアパートなのです。夕刻に大学を出ると大久保までの道沿いにはタクシーを拾 おうとする髪を結い着けた女性達が電信柱ごとに立っていました。新宿へご出勤前の女性たちでした。どきどきしながらそうした女性達を横目で眺めながら帰路 に着いたものでした。

そんな大久保通りとも3年生の春にお別れ。八王子に移転した大学へ横浜線を使って通うようになりました。八王子までの電車には毎日座って通学できる ようになり感激、ひたすら読書の時間となりました。旧女子部の女学生とキャンパスで会うこととなり、興奮の毎日でしたが、恋愛とはまったく縁がありません でした。ひたすら勉強し、3年生で第2薬化学教室に潜り込みました。何がしたいんだと言われて、「イオウの化学がやりたい。チイランの存在証明をしたい」 といったら、バカかと言われてあえなく撃沈。そこから始まったのがイオウイリドを用いた新規反応の開発でした。臨床薬理学教室をその後立ち上げることにな る岡希太郎講師のもとで、実験のいろはを学びました。

4年生となり、薬剤師になるぞと思っておりましたら、「大学院へ行け」と言われて、「はい」と答えのは人生第二の間違い。研究テーマは自分で考える 羽目になり、液体クロマトグラフィーの基礎研究がテーマの教室でしたので、クロマトグラフィーを使って化学するにはどうすればよいかを考えているうちに、 「液体クロマトグラフィーを用いた直接的な光学分割」がテーマになりました。先代の原 昭二教授からは絶対に上手くいかないから止めろとお叱りを受けなが ら、このテーマにしがみつきひたすら実験、始めてピークの頭が割れた時にはそれはもう天にも昇る心地になりました。

職歴
昭和55年4月 東京薬科大学助手に採用
昭和62年4月 東京薬科大学講師
平成2年4月  東京薬科大学助教授
平成4年4月  東京薬科大学教授
平成5年9月-平成6年3月 Indiana University-Purdue University at Indianapolis, Deparment of Chemistry 客員教授
平成21年12月 一般社団法人ソーシャルユニバーシティー主席研究員(兼任)
現在に至る。

大学院在学中に大学病院にて一ヶ月間の病院実習をさせてもらいました。受け入れ先は自分で探したのですが、毎日鑑査の先生に呼びつけられては怒られ ました。大学院卒業も間近となったとき、受け入れてもらった大学病院への就職もほぼ確定となっていた折、「大学に残れ」と言われて、「はい」と答えたのは 人生第3の間違いでした。そのまま、助手となり、以後は職歴の通り、大学を一歩もでることなく実験する日々を送りました。

助手となってから5年後に結婚。それからの子育てには多くの苦労がありました。最初の長女を保育園に預ける時、男は私だけでした。「なんであんたみ ないな男がいるの?」の視線に耐えながら、娘の紙おむつを布おむつに替え、保母さんに渡した日のことは今でも良く思い出します。それから長男、次男と続く うちに世の中はどんどんと変わり、次男の保育園通いの時には沢山のお父さんたちと一緒におしめを替えました。
そうして、少しほっとした頃に、教授に就任しました。幼い娘に、「お父さん、教授になったよ!」と言いましたら、娘曰く、「そう、お父さん、暑くて大変だ ね、でもがんばって!」と激励されました。その不思議な激励を喜びつつも、何だと思っておりました。そうしたら、娘曰く、「だって、恐竜でしょ、暑くて大 変だなと思ったの!」と。

その娘も間もなく大学を卒業します。人生は楽しいのです。

受賞
平成2年10月 平成2年度日本分析化学会奨励賞受賞

所属学会
日本分析化学会、日本薬学会、日本医療薬学会、日本医療情報学会、日本医薬品情報学会、日本薬局学会
日本薬剤師会(職能団体)

主な研究
現在の教室名は「医薬品情報解析学」ですが、以前の教室名は「第二薬化学」でした。この名前の通り、文部科学省の定める大学院専門分野は今も「薬化学」で、不思議な立場で研究を続けています。
大学院時代から博士論文作成の時期を経て、平成15年頃までは、水素結合によるキラルな分子錯体化を水系クロマトグラフィーやミセルを用いる動電クロマト グラフィーに導入し、光学分割を達成することを研究テーマとして実験研究をしてきました。また、分光学的および計算化学的手法により水素結合によるジアス テレオマー錯体の構造を捉えることを目的として、コンピューターを用いた解析的な研究を進めてきました。
近年は医療情報データベースの構築や、薬局における薬剤服用歴などを資源とする調査研究に従事するようになり、臨床現場の薬剤師の方々との交流が不可欠に なっています。「思えば遠くへきたものだ」と思いつつ、薬剤師を育てるための研究をしていることに、薬学研究者としての誇りをもっています。

主な著書
チーム医療を円滑に進めるためのCDTMハンドブック?問題解決のための手順書?(土橋 朗ほか監訳、日本薬剤師会発行・監修、薬事日報社、2010)
食物アレルギーA to Z―医学的基礎知識から代替食献立まで(中村丁次、板垣 康治、池澤善郎、栗原和幸、手島玲子、高松伸枝、鈴木志保子、杉山久仁子、土橋 朗、牧野好洋、第一出版、2010)
キラル分離の理論と実際(土橋 朗ほか分担執筆、今井一洋ほか編集、学会出版センター、2002)
高速液体クロマトグラフィーによるキラル分離(土橋 朗ほか翻訳、中村 洋監訳、廣川書店、1997)など。

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