薬剤師の「経済合理性」とは何か

薬剤師の医療人としての「思い」は患者には必ずしも届いていない。「バスの時間が迫っているから、(薬を)早く出せ!」といった発言が薬剤師を困ら せ、悩ませる。届かない「思い」は一方で、薬剤師を報酬のない活動に関わらせる。お薬の無償のお届けなどはその最たるものだ。医療人としての「思い」は大 切だけれど、もう少し「経済合理性」を考えても良い。

すでに患者は患者さまとなり、お客さまとして経済合理的に行動し、少しでも安い、できれば無償のサービスを求めて医療の世界で行動しようとしている。

3割負担の、あるいは1割負担で安い医薬品を、あるいは医療を買おうとしている。そこにさらに「無償」のお届けまでする医療人の「思い」が果たして必要なのだろうか。

ただ、経済合理性が同時的な等価交換だとすれば、もともと医療には経済合理性はない。医療は「経済合理性」では語れないのだ。患者を経済合理的な 「お客さま」にしてはならないのだけれど、そう思っているのは医療人の側だけ、ならば医療人としての「思い」と患者の間に理解の差があるのは、当然のこと だ。

健康になりたい、病気を治したいという自らの変化をお金で買うという同時的な等価交換は成立しない。なぜなら病気は完治しないし、患者は通常の商品 を買うように同時的に「病気の完治」を買うことはできない。患者には、自身による未来に向けた「無償」の努力が求められる。それを「アドヒアランス」とい う。薬剤師は病気を治すために患者が自らの病状を理解し、その治療に努力すること、正しくお薬を飲むこと、飲み続けることを求め、そのために努力できる知 識を与える。しかし、患者は病状を理解せず、正しく薬を服用せず、飲み続けることを怠る。薬を飲んでも病状にも、日常生活にも、大きな変化が現れない慢性 疾患で、こうした傾向が顕著だ。それを継続させようとする努力が薬剤師の努力なのだが、はたしてどれほど伝わっているだろうか。金銭的な対価として健康を 買うことは絶対にできないのだが、お金を出して物を買う、できれば少ないお金で良い物を買うことに慣れた経済合理的な患者は、いつもの「お客さま」とな り、そうした幻想を抱く。その幻想がある限り、医療には失望しかないだろう。

いつもの物を買うように、自らその物を選ぶという判断で、最良の医療を買うことが患者にはできない、できはしない。そうした「自己決定」を行うこと が患者の権利であるというのだが、その判断ができないところに医療の根本的な非等価交換性がある。これを情報の非対称性と言っても良いだろう。

経済合理性は本来医療には馴染まないものだろうが、そう思っているのは医療人の側だけだということに問題がある。少しでも安くて良いサービスを医療 として買うことなどは、患者には決してできないこと。なぜなら、その判断を患者がしなければならないからだ。その無理を承知で自己決定を促し、患者を治療 することが医療に求められているということをよくよく考えなければならない。

使い道のわからない物を「お客さま」は買わない。必要があり、使い道を理解した物、あるいは理解できる物を、できるだけ安く買うことが「お客さま」 の経済合理的な行動だ。「患者さま」は患者を「お客さま」にする。そして、患者を「患者さま」と呼ぶことが、患者を通常の購買活動で、そうあるように経済 合理的に振る舞うことを許容する。「患者さま」と呼ぶことにも、長い訓練が必要なのだというけれど、この違和感を飲み込むための訓練だとすれば、この訓練 は無意味だ。その違和感こそがまっとうなものなのだ。経済合理性が同時的な等価交換であるなら、医療ではそれは無理なことだ。

人は交換せずにはおれない者だという。何か見たことも無い物があると、それをだれかからの贈り物だと思い、その価値も分からぬ物に対して贈り物を返 す。こうした贈り物の連鎖が人の交易を生んだ。価値が分かるとは理解できる者からの理解できる物が差し出された状況で生まれるもので、それを「贈り物」と はいわない。医療はこの意味で「贈り物」である。

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